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国連人種差別撤廃委員会の2018年9月26日付け対日最終見解書に対する公開抗議文(邦訳)

2018年10月8日

国連人種差別撤廃委員会の2018年9月26日付け対日最終見解書に対する公開抗議文(邦訳)

国連人種差別撤廃委員会(CERD)委員長ノールディン・アミール教授殿
(「写」マルク・ボッソート教授殿、ギュン・クート教授殿)

拝啓

 われわれは、9月26日付けの貴委員会の十分に考慮されたとは言い難い最終見解書に深く失望しております。同見解書は、”un” が先頭に付く3つの形容詞によって特徴づけられると、われわれは理解しています。3つの形容詞とは、「非科学的な」(unscientific)、「偏向した」(unbalanced)、「不公平な」(unfair)です。 

 まず初めに、日本の人種差別撤廃100周年の問題について焦点を当てたいと思います。本年7月、「不当な日本批判を正す学者の会」(AACGCJ)は、このテーマに関する単独のNGOレポートを、貴委員会に提出するとともに、人種差別に反対するNGO日本連合(JNCRD)による包括的なNGOレポートの序文にも、このテーマで寄稿いたしました。「不当な日本批判を正す学者の会」は、その単独レポートで、貴委員会と日本政府に対し、国際社会における人種差別撤廃運動に再び勢いを取り戻すために、日本の人種差別撤廃提案100周年を尊重し、国際社会にこの事実を良く弘めるよう要望いたしました。

 加えて、今回の貴委員会の対日審査に関する日本政府団団長である外務省総合外交政策局の大鷹正人審議官も、8月16日午後の対日セッションのオープニング・リマークの冒頭で、「99年前に、国際社会が、日本政府のイニシアティヴとともに、パリ講和会議で人種差別の問題に取り組む最初のステップを取った」という表現で、日本の人種差別撤廃100周年に明確に言及されました。

 しかしながら、貴委員会の最終見解書は、われわれの要望を無視しただけでなく、このテーマそれ自体に言及することさえありませんでした。このテーマは、現在、貴委員会が責任を持っておられる人種平等運動の起源に関するものであるにも関わらず、貴委員会はそれを全く無視したわけです。貴委員会は、1969年に発効した「人種差別撤廃条約」(ICERD)に基づいて設立されましたが、それは、わが国が、1919年に人種差別撤廃提案をしてからちょうど半世紀後のことでした。日本は、この分野のパイオニアですが、貴委員会は、100周年が近づくタイミングで日本を審査対象としたわけですから、パイオニア国に対して敬意を払うべきだったのではないでしょうか。人種平等運動の歴史全体における起源である国の役割を無視することは、貴委員会は、あたかも自らのルーツを否定しているかのようです。

 本来、国連事務総長のアントーニオ・グテーレス氏もしくは、国連人権高等弁務官のミッシェル・バシェーレ女史が、国際社会における人種平等運動の開始から100周年の記念事業の前面に立つべきではないでしょうか?国連事務局の幹部は、人種差別撤廃運動が、国際連盟規約起草委員会[1]で、1919年2月に開始されたことに留意していただきたいと存じます。

 ところで、対日審査に関しては、合計12本のNGOレポートが提出され、貴委員会のホーム・ページに掲載されております。これらのレポートを、仮にイデオロギーに基づいて類型化すると、左翼側が7本であったのに対し、保守側は5本でした。また、左翼側の7本のうち2本は、韓国のNGOによるものでした。8月14日のNGOとの「非公式会合」(”Informal Meeting with NGO”)で、われわれNGOによるプレンゼンテーションが全て終了した後、主査のマルク・ボッソートCERD委員は、今回の対日審査のNGOレポートを、「良くオーガナイズされている」、そして「非常に多様」と評していました。NGOレポートの多様性を認めていたにもかかわらず、CERD最終見解書は、われわれ保守側の5本のNGOレポートをほぼ完全に無視しました。さらに、CERD最終見解書は、8月16日の日本政府によるプレゼンテーションも、8月17日に行ったCERD委員からの質問に対する日本政府の回答についても、ほとんど反映していません。控えめに言ったとしても、CERD最終見解書は、思想的に明確に一方に極端に偏っています。

 慰安婦問題については、今回のCERD最終見解書が、前回の2014年9月のそれと比べ、ある程度改善がみられることを、われわれとしても、認めたいと思います。2014年の最終見解書に見られた極端に不適切な表現、例えば、「第二次世界大戦中に日本軍によって性的に搾取された外国人慰安婦の問題」、「人権侵害の責任者を裁判にかけろ」といった表現は、今回の最終見解書ではなくなりました。

 しかしながら、われわれは、今回の最終見解書の慰安婦の記述についても、なお大きな不満を持っています。最終見解書は、2015年12月の日韓の政府間合意は、問題の解決策にはならないとして否定し、日本政府に、「被害者中心のアプローチ」(”victim-centered approach”)を勧告しています。しかし、「被害者中心のアプローチ」では単に情緒と主観に頼ることになることから、われわれは、「事実中心」(”fact-centered”)のアプローチが、最も重要であると固く信じております。そもそも、「被害者中心のアプローチ」では、元慰安婦と言われる人たちの口頭証言にだけ頼ることになります。一般的に言って、いかなる証言も、反対尋問を含む何らかの手段によって裏付けられたものでなければなりません。率直言いますと、元慰安婦たちの証言は、余り当てになりません。いかなる国もそしてその国民も、根拠のない指弾によって、その尊厳を傷つけられるようなことがあってはなりません。

 われわれは、人種差別撤廃委員会は、以下の理由により、慰安婦問題を取り扱う資格はないものと考えます。第一に、既に述べたように、自からの誕生の歴史を完全に否定するような委員会に、歴史認識の問題を取り扱う資格は全くありません。第二に、CERD委員の中には、慰安婦問題について、極端に偏った見方をしている人が2人います。ゲイ・マックドウ―ガル女史は、1998年にいわゆる「マックドウ―ガル報告」を書きましたが、そのタイトルは、「奴隷の現代的形態:戦闘期間における組織的なレイプ、性奴隷および奴隷のような慣行」で、報告書の本文には、「レイプ・センター」という言葉まで登場します。他方、鄭(チョン)鎮(ジン)星(ソン)教授は、廷対脇(the Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan) の元・共同代表だった人です。「マックドウ―ガル報告」のタイトルにも、鄭陳星が代表を務めていた団体(廷対脇)の英語名にも、いずれも「性奴隷」(”Sex Slave”)という言葉が使われています。これは、これら2人の委員が極端に偏った見方をしており、貴委員会内で慰安婦問題を議論する資格がないことを意味しています。こうした考えを持った人が、客観的判断ができるでしょうか? これら二人のCERD委員は、誤った固定観念にとらわれています。

 実際、慰安婦は、当時、公明正大に新聞広告で募集したわけであり、人種差別とは全く関係がありません。第三に、そして、最も重要なことですが、慰安婦は、人種差別撤廃条約(ICERD)で規定された人種差別ではないことから、貴委員会がこの問題を取り扱う資格はありません。秦(はた)郁彦教授の試算では、合計およそ20,000人の慰安婦がいましたが、そのうち、日本人が40%、中国戦域の場合には中国人が30%、ビルマ戦域の場合にはビルマ人が30%、朝鮮人が20%、その他の国の人が10%でした[2]。したがって、われわれとしては、日本政府は、CERDの次回の定期的レヴューにおいて、慰安婦問題を含める必要は全くないと理解しております。

 われわれとしては、「性奴隷」とか、「強制連行」とか、あるいは「人身売買」といった要素が、慰安婦制度に含まれているとは考えず、慰安婦問題は、むしろ、「軍専用の公娼制度」もしくは「戦時における公娼制度」であると理解いたしております。現実には、世界のどこでも、すべての軍事基地の近くには、ある種の女性が、常に存在することは事実です。われわれは、第二次世界大戦における日本軍だけなぜ、非難されなければならないか、理解できません。日本軍は、兵士によるレイプの防止や衛生管理の観点から、慰安婦制度を設け、管理していました。われわれの考えでは、日本の制度は、むしろ他の国の軍隊のこの種の慣行よりはるかに優れていたと理解しております。

 「性奴隷」を示す文書は、日本政府が、1992年7月と1993年8月に発表した2度にわたる調査でも、また、アメリカ側が議会のために行った徹底的な調査においても、発見できませんでした。3千万ドルの経費と6年3カ月の歳月をかけて行われた「米議会に対するナチの戦争犯罪と大日本帝国政府の記録に関する政府間ワーキング・グループの最終報告書」(以下「IWGレポート」と略称)は、2007年4月に公表されました。彼らは、CIA(中央情報局)、FBI(連邦捜査局)、OSS(戦略事務局)、陸軍対スパイ部隊(CIC)やその他に保管されている日本政府の行動に関する機密文書合計14万2千ページを調査しました。しかしながら、日本政府が「性奴隷」を指導したとする文書は一つも見つかりませんでした。換言すれば、「IWGレポート」は、むしろ、慰安婦が、「軍専用の公娼制度」だったことの証明にほかなりません。

 第2次世界大戦中、日本、朝鮮、満洲の大手新聞に、月額の報酬を示して慰安婦を公募した新聞広告が多数掲載されました。このように、慰安婦の募集は公明正大に行われたわけですが、これらを見ると、彼女たちの収入が非常に良かったことも分かります。アメリカ側の文書もこれを裏付けています。米陸軍は、北ビルマ(ミャンマー)のミッチーナの戦場で、1944年8月、日本軍関係の慰安所で働く朝鮮人の若い女性20人を捕え、同年8月から9月にかけて尋問しました。当時、インド=ビルマ戦域に展開していた米陸軍と行動を共にしていた戦時情報局(OWI)[3]の心理戦チームが、この尋問を実施しました。その文書は、「OWIレポートNo.49」(いわゆる「OWIミッチーナ慰安婦尋問調書1944」)といわれますが、そこでは、「慰安婦は単なる売春婦かもしくは日本軍と行動を共にする“移動売春婦”以外の何物でもない」と結論づけています。そして、同文書は、慰安婦たちの平均月収は、慰安所の主人に支払う額を差し引いた手取りで750円であり、上等兵のそれ(10円)の75倍にも上るとしています。

 沖縄の問題に関していえば、われわれは、2018年7月に提出した「人種差別に反対するNGO連合」(JNCRD)のレポートで、CERDが2014年9月の最終見解書で述べている、日本政府は琉球人を先住民族と認めよという勧告を取り下げるよう強く求めました。それにもかかわらず、今回のCERD最終見解書は、日本政府に琉球人を先住民族として考え直すように繰り返し勧告し、われわれのJNCRDのレポートを完全に無視しました。われわれが、レポートで明確に述べたように、沖縄県の人々は、自分たちを日本人と認識しており、先住民族と認識しているわけではありません。

 アイヌの問題に関しては、彼らは、世界の他の国々の先住民族とは異なり、日本政府によって、土地や権利を奪われたわけではありません。今回のCERD最終見解書は、アイヌの人々は、他の国における先住民族と同じようなものだとする固定観念に囚われています。貴委員会には、長期的視点に立って、個別国の歴史的事実を良く勉強していただきたいと考えます。

 全体として、貴委員会は、左翼側NGOが、この約30年間、繰り返し刷り込んできた固定観念とともに過去に生きているかのようです。CERD委員には、歴史の真実を見極める努力をもっとしていただきたいと思います。人種差別撤廃委員会は、今回、対日審査中の8月16日の早朝、左翼側NGOとの間だけの裏口会合(秘密会合)を開催したことが分かっています。この会合については、われわれ保守側NGOは、全く知りませんでした。こうした不透明かつ不公平な会合の開催は、予め広く告知されていたCERD委員とNGOとの間の正規の会合である8月16日午後の「NGOによる昼食時ブリーフィング」(”Lunchtime Briefings by the NGOs”)の本来の機能を著しく毀損いたしました。われわれには、このことは、貴委員会が、公正性を全く信用していない証拠ではないかと思われます。

 貴委員会が、日本政府の見解やわれわれ保守側NGOの見方を無視し続け、偏った見方を継続するとしたら、自らの存在理由を失うことになるのではないでしょうか?国連人権理事会や貴委員会は、アメリカが2018年6月、なぜ、人権理事会からの撤退を表明したのか、その理由を良く考えてみる必要があると思います。われわれは、米国が、撤退を決めた個別の理由それ自体を支持するものではありませんが、米国が、人権理事会に全般的・慢性的に強いバイアスがかかっていることを嫌悪しているという点については、良く理解できます。もし、人権理事会にこうした傾向が続くとすれば、日本もアメリカの行動に追随すべしという世論が高まりを見せるのは自然なことではないかと思います。 

敬具

慰安婦の真実国民運動(ATCW)代表 加瀬英明

「不当な日本批判を正す学者の会」(AACGCJ)会長 田中英道
東北大学名誉教授・文学博士

「不当な日本批判を正す学者の会」(AACGCJ)理事・事務局長 山下英次
大阪市立大学名誉教授・経済学博士

[1] 実際、この委員会は、パリ市内のオテル・ドウ・クリヨンの351号室で、15回にわたって開催された。

[2] HATA Ikuhiko, Comfort Women and Sex in the Battle Zone, Hamilton Books, 2018, p. 315. なお、この本の日本語版オリジナルは、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1999年)、新潮選書。

[3] 米国大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは、1942年6月、戦時における情報・プロパガンダ機関であるOWI(戦時情報局)を設立しました。しかし、その前身であるOCI(Office of Coordinator of Information、情報調整局)は、第二次世界大戦が始まる前の1941年6月にすでに設立されていました。